新史料4点がお目見え

 このたび、新たに4点の史料が展示に加わりましたのでご紹介します。

◆河田小龍自筆書簡

 河田小龍は土佐藩の絵師で、藩内でも屈指の知識人でした。ジョン万次郎の取り調べを行って『漂巽紀畧』(ひょうそんきりゃく)をまとめ、若き龍馬に海外事情を指南したことでも有名です。ジョン万次郎は出漁中に難破し、米国捕鯨船に救助された後アメリカで教育を受けた人物です。帰国後、ペリー来航によってアメリカの知識を必要としていた幕府に旗本の身分を与えられ、以後日米和親条約締結に貢献したほか、遣米使節団の一人として勝海舟、福沢諭吉らと共に咸臨丸で再びアメリカに渡りました。維新後は開成学校(後の東京大学)教授として教育者としての人生を送っています。幕末の動乱の中で万次郎が担った役割は大変重要で、彼の経験と知識が河田小龍を通じて龍馬に確かな海外事情を伝えたといえるでしょう。

 この書簡は明治4年に再開した小龍の画塾の門下生・橋本小湖に宛てた1月22日付のもの。記念館には、この他にも小龍の絵画の代表作を展示しています。





◆海援隊商事秘記

 これは慶応3年9月、丹後田辺藩・松本倹吾と海援隊との商取引契約書などの写しで、藝州蒸気船・震天丸借受についての記述や、同月のハットマン商事とのライフル買入契約書などを含む貴重な史料です。海援隊は、亀山社中を改編し、土佐藩の外郭団体として龍馬が隊長をつとめた商社です。

 この史料では、龍馬が使用した変名「才谷梅太郎」で署名していることが窺えるほか、大変珍しい「海援隊商事」の印影(社判)も含まれており、当時の海援隊の商活動の内容を具体的に知ることができます。

 薩長同盟の後、後藤象二郎の協力を得て土佐藩を動かし、大政奉還という平和革命に向かう一方で、龍馬は万が一内戦になった場合の準備も並行して進めていたため、蒸気船や武器などの商取引を行う海援隊の役割は大変重要なものでした。史料の行間からは、大きな時代変革に向かう龍馬の緊張感が伝わってきます。





◆会津藩士の鉄扇(てっせん)

 鉄扇は骨の部分が鉄で作られた扇子で、武士が使用していました。今回展示された鉄扇は戊辰戦争に参戦した会津藩士が所持していたものです。

 徳川幕府守護を家訓とする会津藩は、幕府への忠誠心と共に、藩祖より神道を信仰し、天皇家への憧憬も供えていました。また、藩校「日新館」は全国有数の教育機関として知られていました。
 会津藩最後の藩主・松平容保(かたもり)は、文久2年(1862)に京都守護職となり、新選組や見廻組を配下に置いて京都の治安維持を担ったほか、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵した禁門の変では御所を守り抜きました。孝明天皇はこのことを大変喜び、容保や会津藩への信任は特に厚かったといわれています。

 ところが、幕府に好意的だった孝明天皇が崩御し、明治天皇即位後の朝廷内は倒幕派が優勢となり、やがて戊辰戦争が勃発すると、会津藩は旧幕府軍勢力の中心とみなされ、新政府軍の仇敵となってしまいます。

 映画やドラマなどでも有名な白虎隊は、会津戦争時に予備兵として組織したもので、主に16~17歳の武家の男子によって構成されていましたが、中には13歳の少年も加わっていたといいます。激戦の末飯盛山に落ち延びるも、敗戦を悟った19人が自刃によって亡くなりました。その後も、会津藩士は戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争に至るまで、勇敢に戦い続けました。 

 この鉄扇は、忠義に生きた会津藩士の気概をひしひしと伝える一品です(写真左:表/右:裏)。この鉄扇の他にも、白虎隊士が所持していた脇差や、激戦によって激しく刃こぼれした会津藩士の刀なども展示しています。ぜひ、これらの史料に込められた彼らの思いを感じ取ってください。





◆煙管入に仕込み短刀

 仕込み刀は隠し武器の一種で、刀剣を剥き出しで携行できない時に、主に護身用として使用されたものです。今回加わったのは煙管(キセル)入に仕込まれた短刀(長さ15㎝)。

 煙管入の裏側には葵の御紋が入っており、由緒あるものと思われます。また、記念館にはこの他にも杖やひょうたん、扇子などを使用した大変珍しい仕込み刀も展示しています。





 今回新たに加わった4点の史料は、幕末史や龍馬の足跡に関わる貴重なものばかりで、一見の価値ありです!冬の函館も大変趣きがあり魅力的、ぜひ足を運び、益々見応えを増した北海道坂本龍馬記念館を堪能しに来てください。


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