龍馬が目指した蝦夷地開拓
坂本龍馬の蝦夷地(北海道)開拓への最初の取組みは、元治元年(1864)6月初旬のことである。京都・摂津の浪人を幕艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を立てていたが、龍馬に蝦夷地開拓の話をしていたといわれる北添佶磨(きたぞえ・きつま)や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太(もちづき・かめやた)が池田屋事件に含まれていたことから、師である勝海舟に迷惑がかかると判断した龍馬はこれを断念したとされる。その直後、 残念ながら龍馬の予想通り、勝は江戸召還となり、操練所も閉鎖となった。 やがて亀山社中創設後に薩摩藩・小松帯刀の尽力で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入し、この船での蝦夷地行きを計画したが、慶応2年(1866)5月2日、同船が暴風雨によって五島塩屋崎で沈没。その上、社中のメンバー12人も遭難死してしまう。 海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」での試みは、この船が慶応3年(1867)4月23日、紀州藩船「明光丸」に衝突されて沈没してしまい叶わなかった。 最後は薩摩藩の保証で購入した洋型帆船「大極丸」での試みであったが、この船は支払いの問題から運航不能となってしまい、その後間もなく龍馬は北海道開拓の宿願を果たせぬまま、中岡慎太郎と共に京都・近江屋で暗殺されてしまう。さぞ無念であったことであろう。 慶応3年2月14日、鳥取藩士・河田左久馬宛ての手紙には、 「何卒、今一度御面会仕候時ハ、よほどおもしろき事、御耳に入候と相楽ミ申候。其儀ハ彼の先年御同様、北門の方へ手初致し候事お、又、思ひ出たり。此度ハ既に北行の船も借受申候」 と記され、北海道開拓計画に同志・河田を誘おうとする意図が見られる。また、そのために既に借り受けた船というのは、大洲藩船「いろは丸」であろう。 慶応3年11月10日、死の直前に林謙三宛てに書かれた手紙には、「されば此大極丸の一条ヘチャモクレ」、「私シ汗顔の次第なり」などと、北海道開拓計画のために準備するはずだった大極丸の購入に失敗し、汗顔の次第であると記している。 龍馬は死の直前に至るまで、北海道開拓への情熱を失うことはなく、それはまさに宿願といえるものであった。